山本由伸選手といえば、プロ野球・オリックスのエースとして活躍してメジャーリーグに進出しようとしている今注目の選手ですよね。
そんな山本投手は、宮崎県の都城高校からプロ野球の世界に飛び込み、ここ数年で急成長を遂げてきました。
今では日本球界を代表するピッチャーで、東京オリンピックやWBCでも活躍しました。
山本由伸選手が卒業した高校は宮崎県にある都城高校ですが、出身は宮崎県ではなく岡山県です。
高校野球で県外の高校に進学する生徒は少なくありませんが、なぜほかの強豪校ではなく、あえて親元を離れて都城高校を選んだのかは気になりますよね。
高校時代はどのような成績だったのかも合わせて調べました。
そこでこの記事では、「山本由伸は都城高校をなぜ選んだ?高校時代の成績も徹底解説!」というタイトルで作成していきます。
山本由伸は都城高校をなぜ選んだ?
岡山県出身の山本由伸選手。
野球の強豪校は地元や関西にも多くあったと思いますが、なぜ数ある高校の中から都城高校を選択したのでしょうか。
調べてみると、実は偶然都城高校を選んだのではなく、山本選手が求めている環境とマッチしていたことがわかりました。
山本由伸のプロフィール
名前:山本由伸(やまもとよしのぶ)
生年月日:1998年8月17日
出身地:岡山県備前市
身長:178㎝
体重:80㎏
所属チーム:オリックス・バファローズ
背番号:18
ドラフト:2016年ドラフト4位
身長はプロのピッチャーのなかでは大きな方ではないですが、持前のバネの強さなどはすごいですよね。
容姿もいいので、女性ファンも多そうですね。
山本由伸の小・中学校時代
山本由伸選手は父親の影響で野球を始めて、2歳の頃からおもちゃのバットを片手にグラウンドに行っていたというエピソードがあります。
父親も元高校球児で、勤務先の会社でも軟式野球チームでプレーをしていたほどの野球好き。
小学校では、父親がコーチをしていた少年野球チームの「伊部パワフルズ」で野球を本格的に始めました。
小学6年生の時には全国大会にも出場しており、その時はキャッチャーでした。
強肩を生かして、小学校ではキャッチャーをしていたのです。
中学校になると、硬式野球の「東岡山ボーイズ」に所属。
そこでは、2塁手兼投手としてプレーをして、3年生の時には全国大会に出場しています。
試合数が多かった中学校時代。
チームとしても投手の負担を抑えるために複数の投手が必要だったので、山本投手は3~4番手の投手として2試合目などで投げていました。
小・中学校でどちらも全国大会に出場したのはすごいですよね!
しかし、そのころはまだ投手が本職ではありませんでした。
恩師と先輩の縁で都城高校へ
中学時代に全国大会に出場したものの、中学3年の時には県内の高校などからスカウトはされませんでした。
そんな時、転機が訪れます。
引退後にもチーム練習に参加しているときに、都城高校の監督を務めていた森松賢容監督と出会いました。
岡山県の野球チームのコーチを務めて、山本選手が中学3年の夏に都城高校を率いていました。
森松監督は山本選手が投球練習をしている様子を見ると、一目惚れして「あの子、連れていっていいですか?」と声をかけました。
さらに、都城高校にはもう一つのつながりがあります。
小学校2年からお互いを知っていて東岡山ボーイズでもチームメイトだった1学年先輩の石原与一さんもいたんです。
高校の寮でも相部屋で、相談もしやすかったんだと思います。
このように、山本選手が都城高校を進学先に選んだのは、山本投手の投球練習に一目惚れした森松監督からの誘いや仲の良い先輩とのつながりがあったからと言われています。
県外で生活するときに、知っている人がいたら安心感がありますよね。
また、都城高校が野球に打ち込める環境だったというのが最終的な決め手になりました。
高校から県外に進学して、人としても成長したいと考えたのかもしれません。
都城高校野球部は強い?
都城高校野球部は、全国的にも強豪校として有名で、甲子園にも出場しています。
優れた指導による練習で、多くの優秀な選手を輩出しているのも特徴です。
選手たちは、寮生活をしながらトレーニングに集中して、人間性の成長にも取り組んでいます。
山本選手が都城高校の環境で学んで、成長したことはその後の彼のキャリアに影響を与えています。
都城高校野球部は学業と部活動を両立できる
都城高校は部活動と学業の両立が重視されています。
野球部のような活動と大学進学を目指す教育が組み合わされていて、生徒たちは自分の目標に取り組みつつ、学業もおろそかにしない環境で学んでいます。
山本由伸の高校時代の成績は?
今ではプロ野球界で輝かしい成績をおさめている山本由伸ですが、意外にも高校3年間で甲子園に出場はしていません。
高校での生活は以下の通りです。
1年秋(2014年) ベスト4
2年春(2015年) 準優勝
2年夏(2015年) ベスト8
2年秋(2015年) ベスト8
3年春(2016年) ベスト8
3年夏(2016年) 3回戦敗退
山本由伸投手は都城高校に入学した当初は内野手兼投手として入部しました。
高校1年の夏の大会には三塁手として大会に出場し、本格的に投手としてスタートしたのは1年の秋からです。
背番号1をつけてチームを引っ張り、2年時にはエースとして活躍しました。
キャッチボールでの投球動作や指先の感覚にセンスを感じた監督が投手に完全に転向することを提案しました。
その他、自ら志願して投手になったという情報もあります。
投手としては中学時代からテンポや制球力があり、センスもあったと見られます。
山本由伸の高校時代の評価は?
本格的に投手に挑戦したのは高校1年の秋からの山本投手ですが、どのように評価が上がっていったのでしょうか。
高校1年
入学当初は120キロ台だったの球速は、熱心に走り込みをして下半身を強化した結果、秋の大会では140キロ台のボールを投げられる力をつけました。
半年間で球速が20キロも上がるとは、元々素質があって努力をしたからでしょう。
才能は見られましたが、評価はまた決して高くはありませんでした。
高校2年
冬の走り込みなどでさらに努力を重ねた結果、高校2年の春には147キロの速球を投げられるようになりました。
春の大会を迎え、エースとして5試合に先発して49イニングを投げて9失点と活躍しました。
チームも準優勝という好成績となりました。
春の大会で準優勝を収めたことで、夏の大会での甲子園出場の期待が高まりましたが、結果的にはベスト8という悔しい結果で終わりました。
ただ、夏の大会で151キロという記録を出したことで、プロのスカウトの目に留まるようになります。
秋の大会では、ノーヒットノーランや5回参考の完全試合を達成するなど輝かしい成績を残して注目が高まっていきます。
高校3年
冬の期間中に体重を増やして、走り込みや股関節の強化に取り組むことで体作りに力を入れた山本選手。
3年生になると直球は150キロを超え、速球と多くの変化球を武器に本格派右腕として成長を遂げました。
投手としての完成度が高まった山本投手は九州四天王と言われるようになり、山本由伸選手が投げる試合には多くのスカウトが駆けつけるようになります。
3年夏の大会では初日に20人以上のスカウトが駆けつけました。
高校3年間で甲子園出場はできませんでしたが、投手に転向した後には次々と好成績をあげ、スカウトの注目度も高まってドラフト候補として有力視されました。
しかし、怪我の噂が流れたり社会人野球に進むという噂が出てしまい、ドラフトではオリックス以外の球団からは注目されなくなりました。
ドラフトでオリックスから4位指名
この年のドラフト候補は投手が豊作の年でした。
各チームとも即戦力を目的とした指名が多かったため、山本由伸選手はオリックス・バファローズにドラフト4位で指名されます。
ケガをしているという噂や、社会人野球に進むという情報が流れた結果、オリックスが単独指名しましtあ。
オリックスのスカウトは球団に上位で指名することを提案しましたが、チーム編成の関係で4位で指名することになりました。
4巡目まで残っていないと考えたみたいですが、今では4巡目まで残っていたことは奇跡と言えますよね。
まとめ
今回は、「山本由伸が都城高校になぜ進学した?高校時代の成績も徹底解説!」というタイトルで記事をまとめてきました。
プロ野球・オリックスのエースとして数多くの賞を獲得し、メジャーリーグへの移籍を目指す山本由伸選手。
そんな山本投手は岡山県の出身ながら、宮崎県の都城高校になぜか進学しました。
なぜ県内や近県の強豪校ではなく都城高校を選んだのか調べたところ、恩師や先輩との出会いがあったからでした。
また、野球に集中できる環境だったことも大きかったようです。
そんな山本投手の高校時代にどのような成績だったかを調べてみると、甲子園には出場していませんが、準優勝やベスト4に進出したという成績が高校時代に収められています。